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儒教 とは

儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: [R?xu?] )、思想的側面からは名教礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学思想としては儒家思想という。

東周春秋時代孔子によって体系化され、周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。

教義

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

儒教の考えには本来、男尊女卑と言う考えは存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を持って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在ではみなされており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。

人を思いやること。孔子以前には、「おもねること」という意味では使われていた。また、白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者のたのもしさをいう語」。
「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。

仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

中国における展開

儒教前史

(じゅ)の起源については胡適が論文「説儒」(1924年)で「の遺民でを教える」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。

春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年

孔丘(孔子、紀元前551年紀元前479年)は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった末、国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

史記』孔子世家によると、孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいたとされる。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回閔子騫冉伯牛仲弓、言語に宰我子貢、政事に冉有子路、文学(学問のこと)に子游子夏である。その他、の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

戦国時代(紀元前403年 - 紀元前221年

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。そのなかで孟軻(孟子)は性善説を唱え,
孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて治主義を主張した。また『』『』『』『』『』『春秋』といったの書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。

秦代(紀元前221年 - 紀元前206年

始皇帝六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火をへながらも、に伝えられた。

漢代

前漢(紀元前202年 - 8年

に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学ので挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。

後漢(25年 - 220年

前漢末から災異思想などによって神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。王莽後漢光武帝も盛んに讖緯を利用している。

一方で桓譚王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。

さて、前漢から五経博士たちが使っていた五経写本は漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。これに対して古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが発見されていた。前漢末、劉?古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。平帝の時には『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、朝では『周官』が学官に立てられた。後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。章帝の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵(かき)は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。また馬融経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄(じょうげん)は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。また『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代(220年 - 280年)・両晋(265年 - 420年

に入ると、王粛(おうしゅく)が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注のほとんどが魏の学官に立てられた。また王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預(どよ)が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。この時代に隆盛した学問は老荘思想と『』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏(かあん)は『論語集解』を作った(正始の音)。またには今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅?(ばいさく)が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、閻若?(えんじゃっきょ)によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代(439年 - 589年

南北朝時代南朝の儒学を南学北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、武帝の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになったという。南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏(ぎしょ)の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏(ぎそ)が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の費?(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃(おうがん)の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり王朝を理想として儒教を顕彰し仏教を抑制した。北朝では後漢古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢服虔(ふっけん)の注、『春秋公羊伝』は後漢何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明(じょじゅんめい)がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生(ゆうあんせい)がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からはの二大学者である劉?(りゅうしゃく)・劉?(りゅうげん)が出た。

隋代(581年 - 619年

北朝系のが中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉?(りゅうしゃく)・劉?(りゅうげん)の二劉が出、費?の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉?の『五経述義』、劉?の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』はの『五経正義』の底本となった。また在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。末、孔孟道統論が起こるなかで再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

また文帝がはじめて科挙を行ったことを挙げなければならない。従来の貴族の子弟が官吏となる体制から試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代(618年 - 917年

が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。また永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助趙匡陸淳春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈李?たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李?は『復性書』において「」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。また彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

宋代

北宋(960年 - 1127年

ははじめを継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、??孫?らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

しかし、宋の天下が安定した仁宗期になると、末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫?撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説荀子性善悪混説揚雄は評価の対象から外されていった。

また漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡?孫復石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

神宗期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程?程頤らの洛学道学)、蘇軾蘇轍らの蜀学張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

この時代、「」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただがあるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程?の天理は後の朱熹に影響を与えた。またこのような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在をが離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。またこの気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋(1127年 - 1279年

宋朝は北方をに占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。また程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

孝宗の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李?との出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張?(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して?学(びんがく?


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